昭和56年12月31日   朝の御理解

                    
 御理解90節                        「上から下へ流すのは容易いが下から上へ流すのはむつかしい道を開くと云うても匹夫の俗人から開くのぢゃからものがむつかしうて暇が要いる神のおかけで開かせて貰うのぞたとへ一時はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」                                                               
 道を開くと言うてもと、言うておられる。これは勿論おかげの道であり、日勝り月勝り年勝り代勝りにもおかげを頂きたいと思い願うのですが、そう言うおかげを頂くと言う事だけれども悲しい事には匹夫の俗人であると言う事ですね。
 だからなかなか暇がいると教祖は仰っしゃっとられます。また、難しいとも仰っしゃっとられます。辛抱して行く間に徳が受けられると言う。だからその辛抱していくその辛抱力が勿論いるわけですけれども、難しいと言うて何か難しいかと言うと匹夫の俗人でありますから信心は日々の改まりが第一。信心とは本心の玉を研くものぞやとおっしゃる。この信心の根本になるものが改まると研くと言う事にある。
 その改まりと言う事と研くと言う事が難しいんだと思うですね。ですから信心辛抱さえしとればと言うて、言うならばしっかり辛抱しぬいておられるけれどもですよ。ひとつもおかげになっていかんと言う人もあれば又は教会もありますね。
 それはそのいわゆるギリギリの日々の改まりが第一と本心の玉を研く事が信心なりだよと、はっきり教えてあるけれども、そこに取り組まずして只辛抱しとっただけではね。いわゆる徳が受けられると言う事になってこないわけね。その辛抱している間に徳が受けられるからおかげを受ける。いわゆる家繁昌子孫繁昌の道がね。しかもそれが日勝り月勝りにおかげが頂けれる基礎土台と言うものが出ける。それが難しいのである。勿論これは教師に対する御理解であろうと思いますけれどもね。
 例えば道を開くと言うても教会を開くと言うても人が助かるようになるまでにはなかなかもって簡単に開けるものぢゃない。辛抱して言うならば信心修行を本気でさしてもろうて辛抱して行く間には道が開ける。それは辛抱してる間に徳を受けるからぢゃと、なら徳を受けるその焦点を、と言うと改まりにあり研く事にあると思うのですね。だから成程匹夫の俗人からの事ですから難しいと言うのはね。改まる事が難しい研いていくと言う事が難しい。
 それこそ研いても研いても実が鉄ならば時々は何とかのサビが出ると言う歌の文句ぢゃないですけども、研いとるように思うけれども改まっていきよるようにあるけれども、元のもくあみになってしまっておる。それがどう言う事でそう言う事になるのか、昨日は行橋支部の堀内支部長のお知らせを頂いた事をまあ大体芯にしてお話を聞いて頂きましたよね。 
 あのさるすべりにウグイスが来てとまると言うお話なんです。昨日丁度年末の御礼に支部長はじめ支部員の皆さんが御礼に出て参りましたから、今日は昨日あんたが電話かけてきたあのお知らせの事を芯にして具体的に説いてあるからしっかり頂いて帰えんなさいよと言うておりましたから。皆でまあ頂いていった事でありますが、ね言うならば、言うならば匹夫の俗人だからと言う、仰っしゃるが、私は昨日行橋の支部長の事をまあ信心の天才だと言うような意味にを表現しましたですね。
 言うなら匹夫の凡人ぢゃない。はあ確かにそう、まあそう言うひらめきを持ってるね。けれどもねそれこそ猿も木から落ちると言うようにね。ここに本気で用心させてもらわなければ、言うならば信心辛抱の徳を受けていかなければ、そして言うならば、あんたに慢心が出なかったらと私が支部長に申しますが、本人はそれをどこまで受けてるか分かりませんけれどもね。
 そう言う例えば私が伝えるだけではなくて、神様が直接お知らせ下さると言う事が素晴らしいですね。親先生が慢心するな慢心するなと言われるが自分な慢心しとらんつもりである。けれどもやはり神様からそのような御理解、お夢でも頂かせてもらうとです。ほんにそうぢゃ、猿すべりに来て木に止まるウグイスぢゃ値打ちはないね。それこそ信心辛抱梅の花が咲いてそしてウグイスが来て止まりそしてそれが梅の実ともなる、徳にもなるようなおかげを頂く為にはほんならいくら天才的なものを持っておってもいけないと言うね。 ここに辛抱の焦点と言うものがどこに置かれなければならないか。私は最近思いますのは、まあここの合楽ぢゃないですけども、金光教の信心の芯と言うのは、天地書附にあると思うんですよね。生神金光大神天地金乃神一心に願おかげは和賀心にありと言う、だから和賀心になる為にはと和賀心、和賀心と和賀心を求めてお互い信心させて頂くのですが、私はこれはまあ以前から申しておった事ですけども、教典の全てがこの和賀心になる事の為にあるのだとこう言ってますね。教典の全てが和賀心になる事の為にあるのだと。
 ところがその教典そのものがあまりにも難しい、なかなかね。まあ表現は平易な言葉で教訓か謹言かと思われるような感じの御教えが多いですね。教祖の御教えは、ところが実際になら頂いてみると、もうその深さ広さにはもう只驚くばかり。言うならば私がこの教典一冊に、ここ三十年間を毎日毎日説かせて頂くけれどもまあだまあだ説き得てない所ばっかりだと言う事です。
 一日だって同じ御理解頂いた事がないほどしに深さが広さと言う事になってくると限りがない。しかも私共が長年言うなら真の信心とは真の信心とはそして分からなかった所がです。手探りに言うならば信心を進めておった私共がです。手探りではないはっきりとかくあれよ、こうあらなければお徳は受けられんぞ。こう信心させてもらわなけれはお徳は受けられんと言う事がはっきり合楽では説かれるでしょうが。
 しかもその気になれば誰でもが実行できれるように説かれるでしょうが。だから問題はね、そのそれを本当に本当に真の信心、真の信心と言うて、本気で真の信心を求めておった人に合楽理念を一遍聞かせたら、もう一変に傾倒してしまうでしょうが。ねと言うほどしの内容を持っておる合楽理念をただ聞いたり聞きのがした、ただ知っておりますだけではおかげにならんと言う事です。  私は最近思うと言う事はです。ははあこの和賀心と言う事、天地書附の御精神と言うものはね合楽理念に基づいておれば和賀心になろうと特別精進しなくってもなれるんだと言う事です。いつの間にか心が豊かに大きうなっていたね。
 例えばここで言われる馬鹿とアホウで道を開けと言うような御教えをいよいよ克明に頂いてまいりますとです。その事に徹していっておると、豊かにいつの間にか心が大きうなってね。言うならば和賀心とはこう言う心であろうかと自分で思うような心が育ってきとるですね。天地書附の御精神が和賀心にあるのだから和賀心和賀心和賀心になる為にはと言うのではなくて私は合楽理念に基づいての信心修行をむさして頂いとれば言うなら和賀心は自と生まれてくると言う事であります。
 今日私はまあ難しいとね。上から下に水を流すのは容易いが下から上に水を流すのは難しい、匹夫の俗人から道を開くのぢゃからなかなか難しうて暇がいると言うふうに教えておられる、その難しいと言う事はどこだろうかと言うたら、その改まりと言う事と研くと言う事が難しいと言う事である。
 ところが今も申しますように合楽理念に基づいた生き方をしよればいつの間にか和賀心が育ってくると言う事はね。合楽理念に基づいておればいつの間にか改まりが出けていっておるのであり、いつの間にか研く事の楽しみ喜びが生まれてきておると言う事なのでありますね。信心が楽しいな、有り難いな、信心のそれこそ驚きと…私最近、最近説特に感ずる事はもう合楽でこの実験実証者が非常に増えた事です。もう最近はもう本当にそれが…
 昨日はまあ昨日はここおとといから昨日にかけては、もう年末の御礼の参拝者が多いですから。その方達がもう一人一人言われるのはもう本当に合楽理念に基づく生き方によって日に日に言うならば喜ばしい嬉しい信心生活が出来ると言う意味のお届けが多いです。 と言う事はいつの間にか和賀心が育ってきいつの間にか改まる。兎に角改まらにゃ馬鹿らしなってくる。研かな損だと言う事が分かってくる。それまで研かなんならん改まらなんならんと特別ぢゃなくて、その合楽理念に基づいておるとそれこそ神様が直接教えて下さるんですね。
 昨日の行橋支部長なんかでもそうでしょうが。だから神様が直接教えて下さるほどしのその御教えを、それをほんなら右、左にすればこりゃ又同じ事にです。いかに神様が本当の事を教えて下さってもそれを言う事聞かんなら同じ事です。
 昨日のお道の新聞がまいりましたから丁度昨日は秋永徹先生が側で奉仕しとりましたから論説を読んでもらいました。その論説の中にただ教団の中でもまあ私共皆が偉い先生と言われるような先生方言うなら物一つでも言うを先生方これはね。あの、人の足元だけしか見らない自分の事は棚にあげて人の足元だけしか見らないごたる先生が発言する者が多いと言う意味の事が書いてあるね。
 そすと今度はそう言う言うならば人の足元、人の悪口だけしか言いきらんごたる先生が言うた事がいつの間にか表面に出て来とるのが現在の教団の中にはっきりと表れて来ておると言う意味の事を書いてありまして成程と思いましたね
 それこそ能ある鷹は爪を隠すと言うかですね。もう本当に人が助かる本当に自分がそれこそ日々の改まりが第一本心の玉を研く事が第一と言うようにです。心掛けておる先生方はものは言わんです。 もうどこにおられるのか分からんように黙っておられるです。けどもそあ会合と言うたらもう何々議員と言うごたっとはもう自分がなら運動して回ってからでも自分がそのまあそげなつにならなんならん。そしてまあ教団の為と言うて、言うなら一生懸命そのものを言っておる人達は大概の人がです。人の悪口だけしか言い得ないような人が多いと書いとるです論説に。
 そこまで分かっちゃるから素晴らしいと私思いました。そんならそれけんそれに左右されにゃよいけれども、そう言う人達が言うた事が表面に出て教団全体が左右されておると言う、言っております。段々分かるとが分かってきよるなと言うふうに私はそこん所だけをまあ聞いてね。思いましたけれどね。言うならそん先生方は言うならば改まるとかね研くとか。和賀心などと言ったような事はもう全然念頭においてない、知っちゃおるけども、それを行じてはいない人達が多いと言う事を、まあしかもなら教団で偉いと言われる先生方がそう言う人達がまあ皆が皆という事ぢゃ決してありますまいけれども。本当にまあ折角こんな素晴らしい御信心を頂きながら惜しいなあとまあそう思う事も思うでしょう。            ところが実際はその手立てが分からんでおられると言う方が普通ぢゃなかろうかとこう思うね。そう言う意味でなら合楽ではこれほどに言うならお徳を受けて行く事の為の手立てが日々説かれておるのですからね。
 今言うように合楽理念に基づいて生き方をすると楽しう嬉しうなってくる、その嬉しう楽しう行じていきよる内にいつの間にか和賀心が育ち、いつの間にか改まりが出けており、いつの間にか清められ、研かれていっておる自分に気が付く。結局ね改まると言う事も研くと言う事も合楽理念に基づく他はない。 
 天地書附をいよいよ行じ天地書附をいよいよ自分のものにして行く事の為には合楽理念をもってする他はないと言うふうにもまあ言えるわけですよね。今言う皆さんの中にもそうでしょう。日々が本当に嬉しうして有り難うして神様を身近に感じる日々。はあ一変にこんなに儲けだした。一変にこんなおかげを頂いたと言うのではないですよ。
 良い事悪い事につけて神様が身近にそれこそ囁きかけて下さるかのように、ある時には大音量でね、お気づけを下さるような働きが受けられると言う事がねね、私は有り難いと思うんです。合楽ではの信心のまあ値打ちと言うならそこにあるぢゃないかと思うですね。 いよいよ日々を嬉しう楽しう過ごして行く事の為にはいよいよ合楽理念に基づく生き方、信心生活をさしてもらいながら、そして楽しう嬉しう生きて行くうちに自分でも気が付かないくらいに心が豊かに大きうなっておるのに驚くね。自分ながら驚くほど自分の心が清められていっておる事に驚く。とてもこんなこげな難しい事が改まれると思えなかった事が実際はいつの間にか改まっていっておる自分に気付かせて頂くね。
 これは本気で合楽理念を行じて、それを自分の上に表しておられる方達の私は、もうそれこそ偽らざる体験だと思うんですね。ははあ合楽理念と言うのはそう言うようなね。金光教の信心のまあ神髄が説かれておると言う事は合楽理念に基づいておればその芯である和賀心にもなれれるし、改まりも出来れるし、研いていくと言う事も出来るんだと、わざわざその事と言う事に取り組んでもなかなか出けなかった信心がね。合楽理念に基づいての生き方をいよいよ身に付けていったらいつの間にかそうしたね。
 そう言う信心がいわゆる辛抱していく間には徳くが受けられるとおっしゃる。辛抱しておるけれども道も開けないね、助かりもしないと言う人もあるのです。それは辛抱の焦点が間違っておるね。
 ここで初めて又ほんなら合楽理念に基づく事による改まり、合楽理念に基づいておればいつの間にか清まって行く事が出来、和賀心も自と育ってくると言うね。そう言うおかげを頂くと言う事がですね、やはり難しい。改まると言う事、研くと言う事が難しい。けれども難しいと言うその事を容易に出けるように説き明かされてるのが合楽理念だと言う事になりますですね。「どうぞ」